三代目塚本定右衛門が山梨県に地域貢献した先人50人に選ばれました。(農林業)

山梨近代人物館がオープンしました。

近代人物記念館は山梨県に地域貢献をした近代史に名を残した”山梨の顔”50人を選んでいます。
”三代目 塚本定右衛門”を農林業に貢献した4人の1人として選びました。
当社グループ創業の地である山梨県より山梨近代人物館開館記念式典にご招待いただきました。
当社より小林 史郎常務取締役と藤堂 泰脩聚心庵館長が出席しました。

文久元年(1861年)~昭和23年(1948年)

近江国神崎郡川並村(滋賀県東近江市)出身
初代定右衛門(久蔵)
二代目定右衛門(定次)
三代目定右衛門(定治)
になります。

発端

明治40年 明治43年に山梨県に大水害が見舞われます。
山梨県水害史はその模様を残しています。
”大小諸川ことごとくはんらんし、山岳の崩壊その数を知らず、田畑作物の流亡浸水は言うもさらに、
人畜の死傷はなはだしく、天地為に叫喚の声に揺るがんばかり。今これを思うだに戦りつす”
とあります。
山梨県民当時50余万人が死の淵を彷徨ったとされています。
この水害の原因は明治40年8月に七日間に渡って降り続いた大雨。
甲府 320mm 韮崎 404mm 石和 496mm 猿橋 718mmを記録しています。
死傷者四百二十二人 破壊家屋 一万千九百四十三戸 浸水家屋 一万五千百五十七戸
と膨大な被害に及びました。
さらに、明治43年8月に傷が癒えない山梨県にまた大雨がやって来ます。
山梨日日新聞は、
【富士川一丈一尺増水】【鵜飼橋陥落】【桃林橋流失】【市川より甲府に通ずる道筋交通途絶】
と見出しが並びました。
明治天皇は翌四十四年県民の要望こたえ、県内の森林面積の約半分にあたる入会御料地
約十六万四千ヘクタールを下賜されました。

三代目塚本定右衛門が行なった事

明治四十年(1907年) 義援金 200円
明治四十四年(1911年) 治水のための植林費用 1万円
1万円と言いましても当時のお金で、米一升が十六銭の時代、現在に換算すると
10億円にも及ぶ寄附でした。
山梨県はこの一万円寄附採納願を満場一致で可決し、同年十二月の山梨県議会は
「この寄附行為は公益上まことに奇特なるものと認め、相当の謝意を表したい旨を付帯決議
したのでよろしく処理してほしい。」と山梨県に特別に申し入れています。
三代目塚本定右衛門は御料地下賜のニュースを聞き深く感銘し、
甲府柳町(山梨県)塚本創業1812年から数えて1911年は100周年の意味もあり
父祖久蔵、父定次と世話になった地域に貢献、返礼の意も込められていた。

植林と塚本山

山梨県は笛吹川の上流、東山梨郡三富村上釜口、中ノ沢一帯約181ヘクタールを
その場所に選び、塚本山と命名した。
大水害から三年後植林が始まり、時の知事・熊谷 喜一郎は、
「この植林は近江商人の営々たる苦心と努力による結晶と地元民のなみなみならぬ協力
によるものであるので、一本一本心を込めて造林撫育しなければならないと思う。樹種の
選定や苗木の良否については特別の工夫を忘れるな。」
と訓示した。
昭和三十八年~昭和四十三年に美林に成長した塚本山のヒノキは伐採され県財政に貢献。
平成二十三年十一月十三日御料地下賜100周年の記念式典が行われ、山梨県より(株)ツカモト
コーポレーションは招待され、先人の余慶を受けることとなった。皇太子が平成天皇に代り
出席された。

恩賜林

現在では県の見本林として管理保全され、優良なスギ・ヒノキが生産されている。
山の麓には、塚本山碑が建てられており、治山治水の先覚者として称えられている。